「柊(ひいらぎ)の花」を読んで
             岩漿文学会代表  木内 光夫

 本書は、戦死という形で夫を失った相原ゆう(一九一七年生れ・二○○四年本書発行当時八六歳)の詩・短歌・各種寄稿を網羅した珠玉の折々の記である。彼女は太平洋戦争開戦の昭和十六年、相原昭夫と結婚し、大仁町で開拓した畑の一角に六畳一間の新居を構えた。だが新婚生活はたった三年で終る。昭和十九年、夫は召集されて満州に赴き、「渇病(えつびょう)」に因り八月十日に死亡した。遺骨はついに帰らず、彼女は戦争寡婦(かふ)としてのその後を、夫に「会えず」に過ごした。『ひとひらの骨無き墓に花供え水供えつつ五十年経し』
 思うに本書には、内容として不即不離の関係にはあるものの、本来全く異質な二つの鑑賞法がある。@先ずは刊行の目的にもなっている、戦争を否定し平和の大切さを知ることに重きをおくもので、この立場では彼女の「戦争否定の生き証人」という側面が重要視される。ピュリッツァー賞に輝くジョン・ダワーの「敗北を抱きしめて」第一章の中の、「破壊された人生」での相原ゆうの扱いはその最たるものであり、本書でも冒頭で紹介されている。この狙いから本書の格調高い編み方が生まれ、彼女の作品の資料価値も上がっている。反面、親しみ易さが減じ、次に述べる「愛」の側面がやや後退した。これは戦争を知らない世代にも読んでもらおうとするならば、少々損な側面と言えなくもない。私は、A時代の束縛のために公然夫に愛情を示せず、また、極めて若くして夫を失ったにも拘わらず、戦争未亡人であるがゆえに次の愛に移行できず、娘や孫の成長と彼らの笑顔の中に、自らの宿命を昇華させるほかは無かった一人の女性の、愛情物語としての側面に重きを置いて、本書を鑑賞した。次に掲げる数首は、Aの解釈の礎となったものである。
『征(い)く夫を赤子のごとく抱きし姑(しうとめ) われは指だにふれず別れぬ』そしてこのときが今生の別れになる。『興安嶺(こうあんれい・中国の東北地方の山脈の名)に果てたる夫よその際(きわ)に われを呼びしや姑を呼びしや』そのいずれかを問うのは、単なる妬心の表白ではない。次の二首にも繋がる魂の篭(こ)もった抗議だ。『再婚は戦争寡婦の罪とされし 三十二歳の日の恋』・『子育てに追われし頃は夢にだに 見ざりし夫の夜毎(よごと)哀しき』
 出征を見送ったときの姿で「輝く」夫の残像が、相原ゆうの詩歌の中にはある。独り齢を重ね、老いていくだけの自分は、そのまま贖罪の姿なのか。死んでしまった愛=夫への「憾(うら)み」、生き残った女の「地獄」、二つの極限を彼女は文字に刻む。『玉砕の日は廻りきぬ 黙祷を捧げるだけの妻長らえて』
 私はこの作品集を文学作品として読んだ。史料としてでもなく、反戦を声高に叫ぶ政治的作品としてでもなく。それなのに、戦争は地上最も忌むべきものだと、心に確かに残った。
『とげの葉がくれに黒曜石の
 イヤリングのような実がいっぱいつく頃
 出稼ぎの人らは帰ってくるけれど
 あの人は還ってこない
 私は一人で畑を耕して
 町まで種を買いに行く
 くる年も くる年も
 こうして柊の木には大きなコブができ
 私の髪はこんなに白くなったのに
 あの人はまだ還らない』( 詩「柊によせて」から )
 ここ何年も、これほどに心が揺さぶられたことは無い。
相原ゆう「柊の花」を読んで